ダブル・シンク

罪と罰」を読み終えました。

けっこうおもしろいですね。キャラクターの魅力は「カラマーゾフの兄弟」と甲乙付けがたいところですが、お話の緊張感はこちらの方が上ですね。ドゥーニャとラズミーヒンが安定しているのも良いです。「カラマーゾフ」の主要登場人物は全員メンタルが限界だったので…。

お話は、論文を1本ちょっと当てた程度でオレはイケてるぞと調子に乗った自意識ヤバヤバの主人公が「それはそうとしてこの世の中はつらいな」となり錯乱しながら殺人を犯してメンタルの調子をさらに悪化させ、救いを求め歩き回るというものです*1。基本的には人間を描き出そうとするものだとは思いますが、殺人がバレるかどうかを巡って心理バトルを展開するところにエンタメ性もあります。


二重思考(ダブル・シンク)という言葉がありますよね。「1984年」の言葉で「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」を意味します。「1984年」を読んだときはそんな意味わからんことをどうやって実践するんだよと思ったんですが、それは作者もそう意図しているはずですが、しかしこれは実は大切なことなのかもしれないと最近は思っています。

「後回しにしない技術」に、 最後には絶対にうまくいくと信じること、一方で個々のタスクは全然うまくいかないと信じて批判的検討を行うこと、この「二重思考」が大事だと書いてあったかと思います。(今ぱらぱら見返して見つからなかったので記憶違いかもしれません。)これ、二重思考という言葉をポジティブな意味で使うこともあるんだ、とちょっと驚いたんですよね。

ところで科学を信じると、世界の法則は単にいくつかの方程式で記述され、未来は既に決定しているか、あるいは神がサイコロを振って決めるかであって、そこに我々の自由意志が介在する余地はありません。そのような結論を導く科学法則を我々は疑っていないわけです。

一方で、我々は我々に自由意志が存在すると信じています。そう信じないと正気で人生をやっていくのは難しいですからね。つまり、論理的に整合性が取れないことをより良い人生のために受け入れること、二重思考の前向きな活用を我々は既に行っているわけです。


罪と罰」も「カラマーゾフの兄弟」も、キリスト教の地位が脅かされつつある時代に書かれていて、神が存在しないとすれば我々は何を拠りどころにすれば良いのかという問題を扱っています。実際、宗教の不在は現代の重要な課題のひとつであって、宗教ではないところに無理やり拠りどころを求めてしまうことによる歪みがいろいろとあるのではないかと僕はうっすら思っています。

でもこれは、神が存在しないことを信じる一方で、神(や救済に類するもの)を信じる、それで良いのではないでしょうか。僕は理系の研究者ですが、それでも絶対に極楽浄土に導かれてやるぞと思ってますからね。

*1:諸説あります。