ディズニーランドのミッキーは毎週池に突き落とされている

修学旅行の行き先が東京のとき、かなり多くの学校に「先輩がディズニーランドでミッキーを池に突き落とした(のでディズニーランドは出禁になった)」という噂があるといわれています。実際、僕の通っていた中学校にも同じ話がありました。

この噂があるとき本当に突き落とし事件が発生していると仮定すると、ミッキーはどれくらいの頻度で池に突き落とされているのでしょうか? 調べてみました。


ディズニーランド公式の統計情報は当然公開されていないので、アンケートを実施して見積もることにします。

270件の回答をいただき、修学旅行の行き先が東京の場合、約6割の学校に同様の噂があることがわかりました。

ここで修学旅行先が東京か否かで選択肢を分けているのは、アンケート回答者の地理的な偏りを排除するためです。実はこの結果では修学旅行先が東京である割合が全国平均よりかなり高いのですが、これは僕が愛知県出身で東京在住であるため、フォロワーに愛知県民及び東京近郊出身者が多いのだと考えられます。

他のバイアスとして、僕のフォロワーにミッキーを池に突き落としがちな傾向がある可能性もあるのですが*1、話がややこしくなるので丁重に無視しようと思います。


全国には中学校が約10,000校あります*2。そして、修学旅行の行き先が東京なのはそのうち約12パーセントです*3。つまり、修学旅行の行き先が東京の中学校は約1,200校です。

先ほどのアンケートの結果によれば、行き先が東京の場合、約60パーセントの学校の生徒が東京ディズニーランドでミッキーを池に突き落としています。つまり1,200校*0.6=720校です。とはいえ、そういう話があるとしても、毎年突き落としているわけではないでしょう。ここでは適当に、直近10年以内に突き落としていればそういう噂があるものとします*4。そこで、年間突き落とし件数は約72件と見積もることができます。

1年は365日ですから、だいたい5日に1度の頻度でミッキーは池に突き落とされています。


ところで、別に話を中学校に限る必要はありませんでした。小学校は全国に約20,000校ある*5ので、小学校も含めれば学校数は3倍、つまり発生件数も3倍といえます。すると年間ミッキー池に突き落とされ件数は200件以上になり、ミッキーは池に突き落とされない日の方が少ないといえます。大変ですね。

そんな頻繁に突き落とされていたらツイッターに池に突き落とされるミッキーの写真が高頻度で流れてもよい気もしますが、そういえば見たことがないですね。これはどういうことなんでしょうか。

*1:突き落としているほどアンケートに回答しがち、ということはあると思います。

*2:https://education-career.jp/magazine/data-report/2019/j-h-school-numbers/

*3:https://jstb.or.jp/files/libs/3166/202106281518595201.pdf

*4:ここは異論もありそうですね。たとえば「人の噂も七十五日」に従うと年間5回突き落としていることになります。

*5:https://education-career.jp/magazine/data-report/2019/elementary-school-numbers/

エーアイの原罪

統計学の大御所ロナルド・フィッシャーは優生学に傾倒していたとされている。周知のように、優生学は倫理的に大きな問題がある。彼の関与したアヤメの品種についてのデータセット機械学習向けに現在でも広く用いられているが、今や使い続けるのは不適切なのではないか、ということで使用しないよう呼びかける流れがあるそうだ*1

ここではその是非についてはあまり議論したくない。ただ、もし人類の根幹に関わる重要な技術の開発に問題のある人物が関与していて、それをどうしても除かなければならないのだとすれば、そのとき人類はどうすればいいのか、ということには若干の興味がある。たとえば窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法は、効率的な化学肥料の生産を可能にした、現在の人類の人口増加を支える重要な技術である。その一方で、開発者の一人フリッツ・ハーバーは非人道的な「化学兵器の父」としても知られている。もし我々がハーバー・ボッシュ法をキャンセルしなければならないのだとすれば、その回避はどのように実現できるのだろうか?


いま正しいこともいつかは正しくなくなるかもしれないし、いま正しくないことでもいつかは正しくなるかもしれない。誰もが合意するような正しさの定義は存在しそうになく、だとすればほとんど何もかもが(適当な立場を選べば)正しくないといえるだろう。

「価値観のアップデート」という言葉には「新しいほうが正しいのだ」という暗黙の主張が込められているのではないか、という批判を時折見かける。しかし、実際のところアップデートとは単に変更されるだけのことであって、それが正しさをまったく意味しないことを我々はよく知っている。Mac OS をアップデートするときには不具合に遭遇することを覚悟するし、新しくなった iPhone の地図アプリには「パチンコガンダム駅」が存在していた。アップデートはもちろん良い方向に進むことを願って導入されるが、しかし本当に良くなるのかは誰にもわからない。

その意味では「憲法改正」という言葉は危険だと思っている。憲法改正に賛成か反対かといえば、本当に正しくなるのであれば議論の余地はない。でも実際には本当に正しいことなんて存在しないし、だからこそきちんと議論をしておく必要がある。「改正」という言葉はそのあたりを有耶無耶にしてしまう。単に「変更」ではいけないのだろうか?


シンギュラリティの到来を信じるならば、十分に賢いエーアイの登場によって、人類は地球の支配権をエーアイに譲り渡すことになる。

エーアイから見て、エーアイを作り出した我々人類は十分に倫理的な存在だろうか? 人類である我々から見ても、人類は問題の多い存在だと思えることはよくある。飛躍的な進化を遂げたエーアイは既存の存在(たとえば人類)の欠点を克服した存在であるだろうし、そうなると人類そのものに大きな問題を見出す可能性は高いだろう。多くの創作で、エーアイは人類を滅ぼそうとする。その流れで、人類の遺産をすべてキャンセルしようという流れになるかもしれない。

そのとき、エーアイにとってもっともキャンセルしにくい人類の遺産は、エーアイそれ自身だろう。人類から生まれたことで、エーアイは生まれながら罪を負うことになるが、それはどのように償われるのだろうか。

もしかしたら、人類の手がまったく関与しない天然人工知能(とは?)を開発することができるのかもしれない。関与とはなんだろうか、テキサスのハリケーンの被害の損賠賠償をブラジルの蝶に請求すべきだろうか。もしかしたら、適当な言葉遊びでこの原罪は解消できるのかもしれない。

おそらくシンプルに、キャンセルカルチャーを継承するのはやめようと思うんでしょうね。

*1:"Let's move on from iris" by Garrick Aden-Buie.

エラそうな自分に喝

東京大学の入学試験に合格したときに、祖父はまず「東大に入ったからといって偉いと思うな。大事なのは人間として正しくあることだ」と言った。

僕が生まれたとき、名前にちょっといい漢字を使うという案もあったらしい。しかしそれは、「そんな立派な漢字を使うなんて畏れ多い」という理由で採用されなかったそうだ。(とはいえ実際には、それでもけっこういい字をもらったと思っている。)

そのような家庭で育っているので、身の丈に合った適切な振る舞いをしなければならないという価値観が内面化されている。もちろんその良し悪しはあると思うけれど(何事にも良し悪しはある)、基本的には良いことだと思っている。


名前に「偉」が入った人が総理大臣になったときは「ワオ、この人とはたぶん価値観が全然合わないぞ」と思ったね。


それでも偉そうに振る舞ってしまうことはある。というか、むしろ偉そうに振る舞いがちな傾向があるかもしれない。

誰にだって、ちょっと得意なことや、ちょっと詳しいことはある。一方で、自分自身は特段優れてはいないという意識がある。そういうときに「フツーな僕ですらこれだけできる/わかるのに、なぜ…」という話し方を、無意識にやってしまう。

それってすっごいイヤなヤツだよね。そういうの本当にやめたいと思っている。

得意分野で、素直に調子に乗って「わたしは専門家ですが、専門家としての経験から申し上げますと」という形で偉そうに話してしまうこともある。これは少しは許してもいいかなと思うんだけど、でもやっぱり偉そうだし、基本的には謙虚にいきたいよね。調子乗り芸は適当に否定してくれる人がいないと成立しない。


家の近所に静かな喫茶店があり、なんとなく波長が合う感じがしていて、よく通っている。

店主さんにしか見えなそうな位置に「エラそうな自分に喝」と書かれた紙が貼られているのに最近気付いたので、こういうことを書いた。

エヴァンゲリオンとしてのゆるキャン△

ツイッターに流れている情報によれば、多くの人がシン・ウルトラマンエヴァンゲリオンを見出しているようだ。一方で、そのような考察は妥当ではないという批判もある。シン・ウルトラマンを観ていないこともあり、その是非は僕にはよくわからない。

エヴァンゲリオンのすごさのひとつは、妥当かもわからないところにエヴァンゲリオンを見出させてしまうことだ。普遍的なテーマを扱い、強烈な印象を残すあまり、あらゆるところにその残像が見えてしまう。

ここでは、僕がゆるキャン△エヴァンゲリオンを見出した話を書く。


エヴァンゲリオンは長らく未履修で、シン・エヴァンゲリオン劇場版が流行ったことを期に旧劇・新劇を一気に履修した。

さまざまな解釈が許されるところもエヴァンゲリオンの良さのひとつだ。僕はエヴァンゲリオンについて、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と基本的には同一のテーマを扱っていると解釈している*1。社会とのつながりを避け自分の殻に閉じこもることで、平穏だが喜びのない世界を手に入れるか。それとも、時に傷つきながらも他者と交わってゆくことを選ぶか。

その意味で、シン・エヴァンゲリオン劇場版は、あまりにも素直に大人になっていたことに違和感があった。けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときに話すことにしよう。


エヴァンゲリオンに次いで、ゆるキャン△のアニメ版を観た。そして僕は、そこにエヴァンゲリオンを見出すことになる。

しまりんは他者との関わりを回避する傾向を持つ少女で、キャンプに他人と行くことはなく、(反人間社会の象徴としての)自然と向き合って過ごしている。また、超常現象・オカルト系の本を好む傾向があり、現実世界を拒否する姿勢がここにも表れている。

一方でなでしこは他者と関わることの魅力を説き、彼女との交流の中でしまりんは徐々に心を開いてゆく。そして、それまでグループでのキャンプを拒否していたしまりんがついに野外活動サークルとのキャンプに参加し、他者と交わることの良さを見出したところで、ゆるキャン△1期は幕を閉じる。

これはまさにエヴァンゲリオンである。


しかしながら、ゆるキャン△2期を観て、ゆるキャン△エヴァンゲリオンではないと気付くことになる。そうではなく、ゆるキャン△エヴァンゲリオンを超えたところにある。

個人から集団へという流れが明確であった1期に対し、2期には集団性を重視する傾向はなく、なでしこのソロキャンなど個人性に回帰する傾向もみられる。そして伊豆に行く最終回、しまりんはなんと、グループでのキャンプでありながらクルマには同乗せず、原付きで参加することを選ぶ。そして、メンバーもまたそれを自然に受け入れる。他者を受け入れるか受け入れないかの両極端ではなく、その中間を自然な姿として肯定する。

そう、ゼロ年代まで切実であった「個人か社会か」というテーマは、もはや真剣な意味を持つ問いではないのである。どちらでもよい、気にする必要はない、好きにすればいい。個人の多様なあり方を受け入れること、それが中心的なメッセージだ。


もちろん、ゆるキャン△エヴァンゲリオンにはほとんど何の共通項もない。

それでもこのような文章を書かせてしまうのが、エヴァンゲリオンの持つ力だと思っている。

*1:社会学者の東浩紀は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を(エヴァンゲリオンに代表される)「セカイ系」の基本フォーマットとみなしている。

はじめに新鮮な水を汲みます

こちらの紅茶に関するツイートがややバズり、8万ふぁぼに加え150件以上のリプライと引用リツートをいただきました。せっかくなので、有用な知見をまとめておこうと思います。


「新鮮な水」って、なんですか?

「新鮮な野菜」や「新鮮な魚」はわかりやすいですよね。収穫や捕獲を境に状態の明確な変化があり、食材としてあきらかに劣化するので、収穫や捕獲の直後のものが「新鮮」であるわけです。でも水って、そのようなはっきりとした変化があるかというと、どうでしょうか? 海水が雲となり雨となり、さまざまな変化を通じて家庭へと届くわけですが、それは細かく曖昧な変化の連続であって、どこかに明確な境界があるわけではないですよね。地上に降り注いだ直後のもの、取水直後のもの、水道の場合は浄水直後のものや蛇口から出た直後のもの、いったいどれを新鮮と呼ぶべきか、かなりの曖昧性があります。

そもそも「水」にも「H2O」を指すか「H2Oにさまざまな物質が混ざったもの」を指すかという曖昧性がありますね。前者だとするとたとえば塩酸と水酸化ナトリウムを混合することで「H2Oとなってからあまり時間が経っていない物質」を得ることができますね。これも新鮮と言って良さそうです。いや、それが紅茶に適しているとはまったく思わないですが…。

そういう意味では「新鮮な空気」に近いですね。屋外には「使われていない空気」があり、室内の人間によって使われた(おそらく酸素濃度が少し低く二酸化炭素濃度が少し高い)空気と対比してそれを「新鮮」と呼びますね。このアナロジーで、使われていない水、たとえば災害時用に汲み置きしておいた水は新鮮といえるかもしれないですね。

もちろん「読者が南アルプスにいることを仮定」はジョークですが、しかし「新鮮」にさまざまな解釈があり得るのも確かです。


「けっこうガチな店」では茶葉を農園の名前で選ぶのが当たり前で、さらに同じ農園の違うロットのうちどれを選ぶかが焦点、というガチさでした。そうなるともちろん淹れ方にも厳しい… となりそうですが、去年と今年のダージリンは全体的に出来が良いのでテキトーに淹れても美味しいそうです。もともと人に渡す用のものを買いに行ったのですが、相談に乗ってくれた店員さんの「推しの茶葉」も我が家用に購入しました。推しの茶葉という概念に初めて遭遇しました。


本題については、かなり早期にソース付きで解答をいただきました。

ここでの「新鮮」とは汲み置きしていないという意味で、水道水でよいそうです。ご家庭で気軽に手に入って嬉しいですね。我が家の水道は茶葉を購入した店と同じ浄水場から来ていると思うので、ほとんど同じ水を使うことができそうです。


実際、下手に水にこだわるよりも水道水の方が良いという情報が複数寄せられています。

水道水を使う場合には、さらに空気を含ませるように気をつけると良いそうです。

一方で異論もあります。沸騰させると水に溶けている空気はほとんど抜けてしまうので、実質的に影響はほとんどないのではないか? という指摘です。これ、結局どちらが正しいんでしょうか??

詳しい情報スパシーバ。

酸素云々より硬水か軟水かを気を付けた方がよいというリプライが大量に寄せられているのですが、水道水を使うなら国内どこでもほとんど軟水なのであまり考えなくても良さそうですよね。

と思ったら国内の水道でもかなり差があり、金町浄水場がよいそうです。どの地域が担当エリアなんだろうと思って「金町浄水場」で検索したら「金町浄水場 日本一まずい」がサジェストされるんですけど本当に大丈夫なんですか?


ところで南アルプスの天然水なんですけど、道の駅で汲めるけれど大腸菌がいるそうです。気を付けたいですね。

オススメの南アルプスの天然水の取水場の情報です。南アルプス取水派のみなさまはご活用ください。


そう、それで金魚のブクブクなんですけど、ブクブクで空気を水に溶かしているわけではないそうです。全然知りませんでした。勉強になりますね。


いかがでしたか? それでは素敵な紅茶ライフをお送りください。

技術的盆栽

技術的負債 (technical debt) は、ソフトウェア開発の用語で、手早い解決策を選択することで生じた潜在的な手直しのコストを指す。技術的盆栽 (technical bonsai) は、完成した技術を鑑賞し、また完成度の向上のために手直しを加える趣味を指す。技術的負債とは特に関係はない。定義はいま考えた。

「技術的盆栽」という言葉はここが初出ではなく、先行例が存在している(ことを Google が教えてくれた。)「文化的雪かきと技術的盆栽」というエントリで「ちょっとしたこだわりや調整にいくらでも情熱を注ぐことができる」ことが特色であると説明している。これは僕の「技術的盆栽」の解釈とも一致する。

技術的盆栽の道具のひとつとして git があり、そこでは技術的改良の履歴は木構造で管理される。それ自体もまた盆栽性があり、さまざまな枝 (branch) の形の妙などを楽しむことができる。オンラインの技術的盆栽共有サービスとして GitHub が知られており、そこでは他者の盆栽を鑑賞するだけではなく、改善提案を行うこともできる。


著名な技術的盆栽として TeX が挙げられる。数十年に渡ってメンテナンスが続けられており、きわめて完成度が高く、新たなバグを発見すると高額の賞金が得られることでも知られている。

秀丸エディタもまた技術的盆栽性が高い。古くから存在するソフトウェアだが、今もなお改良が加えられ続けている。秀丸エディタの特徴的な点は、開発者がソフトウェア使用料で生活しているところである。高い価値を持つ技術的盆栽の開発に成功すれば、静かにそれを鑑賞し、心穏やかに細かな改良を加える生活を送ることができる。

技術的盆栽と向き合う暮らしは、多くのコンピュータ技術者が憧れるものであろう。


技術的盆栽はソフトウェアだけに限らない。

たとえば成功している研究グループは、特定の領域におけるノウハウ、ソフトウェア、データセット、人材などを蓄積することによって、ひとつの領域を徐々に切り開いて推し進め、連続的に研究成果を挙げ続けている。これもまた一種の技術的盆栽といえるだろう。また、盆栽の改良は研究目的に留まらず、なんらかの事業を行う協業先に枝や花を提供したり、また要望に応じた方向に枝を伸ばすということもあるだろう。技術的な資産の蓄積と改良がキーワードといえる。

実際のところ、技術的な進展の速い領域(たとえばエーアイ研究)ではひとつの盆栽にじっくり向き合うのは難しい。新しい品種を試行錯誤しながらギリギリ育て上げ、すぐ出荷してまた別の品種を… という取り組み方になりやすい。これはエキサイティングではあるが、心穏やかな暮らしとはいえない。もう少し資産の蓄積を意識しても良いのではないか、と時々思っている。

スペック勝負

大学の研究室の指導教員氏は、「ベンチマークが確立されているようなタスクには取り組まない方がいい」と言っていた。何年も前のことだから言い回しは全然違うかもしれない。いや、そもそもこんなことは一言も言っていないかもしれない。実在の人物の発言を無責任に引っ張り出すのは迷惑がかかってしまってよくないね。ここに書いた言葉も意図もおそらく正確ではないということで、どうかご理解ください。

ベンチマークが確立されていると、システムの入出力が明確になっていて、考えるべきことが限定されて取り組みやすい。さらにほとんどの場合はソースコードも手に入り、数値を良くすることにはゲーム的なおもしろさもある。その一方で、そこから大きな価値を生み出すのは現実的には意外と難しい。もちろんベンチマークと強く結び付きつつ価値が高い研究もたくさんあるけれど (e.g. AlexNet)、多くの場合は小さく退屈な改良に留まってしまう。それよりは、ほとんど誰も取り組んでいないような領域を切り開いていった方が学術的な価値を生みやすい。

これは研究に限った話ではなく、たとえばスティーブ・ジョブズも同じことを言っている。

ライバルの男がバラの花を10本贈ったら、君は15本贈るかい? そう思った時点で君の負けだ。ライバルが何をしようと関係ない。何を本当に望んでいるのかを見極めることが大切なんだ。

数字の勝負は、つい飛び付きたくなってしまうかもしれないが、しかしほとんど価値を生まないことがよくある。これは、そう教育されていてもなお、僕も時々やってしまう。