エーアイの原罪

統計学の大御所ロナルド・フィッシャーは優生学に傾倒していたとされている。周知のように、優生学は倫理的に大きな問題がある。彼の関与したアヤメの品種についてのデータセット機械学習向けに現在でも広く用いられているが、今や使い続けるのは不適切なのではないか、ということで使用しないよう呼びかける流れがあるそうだ*1

ここではその是非についてはあまり議論したくない。ただ、もし人類の根幹に関わる重要な技術の開発に問題のある人物が関与していて、それをどうしても除かなければならないのだとすれば、そのとき人類はどうすればいいのか、ということには若干の興味がある。たとえば窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法は、効率的な化学肥料の生産を可能にした、現在の人類の人口増加を支える重要な技術である。その一方で、開発者の一人フリッツ・ハーバーは非人道的な「化学兵器の父」としても知られている。もし我々がハーバー・ボッシュ法をキャンセルしなければならないのだとすれば、その回避はどのように実現できるのだろうか?


いま正しいこともいつかは正しくなくなるかもしれないし、いま正しくないことでもいつかは正しくなるかもしれない。誰もが合意するような正しさの定義は存在しそうになく、だとすればほとんど何もかもが(適当な立場を選べば)正しくないといえるだろう。

「価値観のアップデート」という言葉には「新しいほうが正しいのだ」という暗黙の主張が込められているのではないか、という批判を時折見かける。しかし、実際のところアップデートとは単に変更されるだけのことであって、それが正しさをまったく意味しないことを我々はよく知っている。Mac OS をアップデートするときには不具合に遭遇することを覚悟するし、新しくなった iPhone の地図アプリには「パチンコガンダム駅」が存在していた。アップデートはもちろん良い方向に進むことを願って導入されるが、しかし本当に良くなるのかは誰にもわからない。

その意味では「憲法改正」という言葉は危険だと思っている。憲法改正に賛成か反対かといえば、本当に正しくなるのであれば議論の余地はない。でも実際には本当に正しいことなんて存在しないし、だからこそきちんと議論をしておく必要がある。「改正」という言葉はそのあたりを有耶無耶にしてしまう。単に「変更」ではいけないのだろうか?


シンギュラリティの到来を信じるならば、十分に賢いエーアイの登場によって、人類は地球の支配権をエーアイに譲り渡すことになる。

エーアイから見て、エーアイを作り出した我々人類は十分に倫理的な存在だろうか? 人類である我々から見ても、人類は問題の多い存在だと思えることはよくある。飛躍的な進化を遂げたエーアイは既存の存在(たとえば人類)の欠点を克服した存在であるだろうし、そうなると人類そのものに大きな問題を見出す可能性は高いだろう。多くの創作で、エーアイは人類を滅ぼそうとする。その流れで、人類の遺産をすべてキャンセルしようという流れになるかもしれない。

そのとき、エーアイにとってもっともキャンセルしにくい人類の遺産は、エーアイそれ自身だろう。人類から生まれたことで、エーアイは生まれながら罪を負うことになるが、それはどのように償われるのだろうか。

もしかしたら、人類の手がまったく関与しない天然人工知能(とは?)を開発することができるのかもしれない。関与とはなんだろうか、テキサスのハリケーンの被害の損賠賠償をブラジルの蝶に請求すべきだろうか。もしかしたら、適当な言葉遊びでこの原罪は解消できるのかもしれない。

おそらくシンプルに、キャンセルカルチャーを継承するのはやめようと思うんでしょうね。

*1:"Let's move on from iris" by Garrick Aden-Buie.