エヴァンゲリオンとしてのパリピ孔明

予め申し上げておきますと、パリピ孔明エヴァンゲリオンではないです。


以前、「エヴァンゲリオンとしてのゆるキャン△」という記事を書きました。

parosky.hatenablog.com

この記事では、ゆるキャン△の中心的なメッセージは個人の多様なあり方を受け入れることであると述べています。これは特異な視点と思えるかもしれないですが、その後に書かれた「きららアニメ大好きな俺が大好きなきららアニメTOP20選んだ」

真剣に見ると実は志摩リンはかなりやりたい放題してるんだけどゆるキャンの世界では許されていて、それを見ているなでしこ達もやりたい放題を始めるのが良いね ゆるキャンの世界ではなにやっても許される

有識者の方が語られていることを思うと、それほど的外れな見方でもないようです。


パリピ孔明に登場する主要なキャラクターを振り返ってみると、そのほとんどは、実はパリピではありません。

パリピ孔明の主要キャラクター(公式OP動画より)

実用日本語表現辞典によれば、「パリピ」とは

多く人が集まる場所に行って皆で盛り上がることを好む人、といった意味の若者言葉。クラブ、フェス、ハロウィンやクリスマスのイベントといったノリのよい集まりに参加したり、あるいは仲間内でパーティをよく開いたりする人を意味する語。

だそうです。孔明と英子は成り行き上仕方なくクラブに出入りしているだけで、目当ての歌手の歌を聴いたり情報を集めたりなどの特定の目的ではなく、皆で盛り上がるためにクラブに行く描写は(多分)なかったはずです。KABEは人のことを避けがちで七海はクラブにはほぼ出入りしません。この中で明らかにパリピなのはオーナーだけではないでしょうか。自分でクラブを経営するのは疑いなく「仲間内でパーティをよく開いたりする人」ですね。

オーナー以外の4人は、「パリピ」のイメージとは真逆で、精神的にかなりの負荷を抱えています。つまり「崖っぷち神経な人たちのテーマパーク」なのであって、…これはエヴァンゲリオンを形容する言葉ですね。

ただ、パリピ孔明ではメンタルの危機をわりとあっさり(音楽の力とかで)乗り越えがちなところに大きな違いがあります。


作品としては、孔明の力のおかげで英子が素直さを貫き通せる一方で、そういうファンタジーに留まるのではなく他のキャラクターはもう少し現実的な問題を抱えているところにおもしろさがあります。

KABEの存在意義は最初はけっこう謎だったんですが、孔明とのラップバトルを通じてラップが漢詩と共通することを示し、そのことによって一見非自明な孔明パリピとの親和性を明確にしたところが良かったですね。

難点としては、作中ですごく重要な意味を持つ歌がちょっと好みではなくて、そうなるといろいろとダメになってしまいますね。「ラ・ラ・ランド」で「オレはこんな音楽じゃなくて本物のジャズをやりたいんだ!」と言われたときに「え、『本物のジャズ』よりジョン・レジェンドとやってた曲の方がイケてるじゃん」と思ってしまったときと同じような感覚があります。