『葬送のフリーレン』または『フリーレンによる福音書』

私は『葬送のフリーレン』を『フリーレンによる福音書』と解釈しています。

「勇者ヒンメルならそうした」は「主は言われた」と対応します。勇者ヒンメルは自らの死をもってフリーレンを、そして不完全な人間である私たちを救われました。フリーレンは、勇者ヒンメルの教えを自ら実践しながら伝道してゆきます。

  • ネタバレが含まれます。作品に触れる前にこの記事を読むのはおすすめできません。
  • この記事は、聖書にいくつもの解釈があるように、ここに書かれた内容が唯一にして絶対の解釈であると主張するものではありません。
  • 私はキリスト教について詳しくないため、キリスト教に関する記述には誤りが含まれる可能性があります。(大昔にマタイ伝だけ読みました。)
  • 原作漫画を履修していないため、アニメ版を想定して書いています。
  • 求められる前提知識が云々という話は取り扱いません。

『フリーレン』は難しい、とよく話題になりますね。全体的に言葉は少なめだけれど話の進展が遅かったり密度が薄かったりするわけではなく、言葉がないところには視聴者が想像で言葉を当てはめなければならない。そのひとつひとつは難しくはないけれど多少の集中力が要求される、そこが難しく感じやすいところだと思います。

togetter.com

私は最初、この作品のテーマは人間讃歌であると解釈していました。魔王討伐をしていた頃のフリーレンは、どちらかといえば「魔族」に近い存在です。「弟子を取ったりはしないのか?」「時間のムダだからね。いろいろ教えてもすぐ死んじゃうでしょ」からは、人間の関わりを主に自分にとっての利用価値で捉えていることが伺えます。ドワーフのアイゼンはエルフと人間との中間的な寿命を持ち、その立場から「フリーレン、人との関係はそういうものじゃない」とエルフと人間との仲立ちをします。そして、後にフリーレンは人間という存在の持つ素晴らしさに興味を持ち始め、それを学びながら実践していきます。つまり、人間ではない存在を通じて人間の素晴らしさを描き出すのがこの作品でやりたいことなのだ、そう思っていました。

しかし途中から、この作品は単に人間を讚えるものではなく、勇者ヒンメル、その仲間たちや弟子たちを描き出すことで、人間としての理想的な振る舞いについて説くものであると捉えるようになりました。

Twitter で見かけたのですが、「勇者ヒンメルの死から〇年後」という表現は「イエス・キリストの生誕から〇年後(=西暦)」と対応付けることができます。それに従うとこれは勇者ヒンメルの教えを伝える物語であり、「勇者ヒンメルならそうした」は「主は言われた」に対応すると解釈するのが自然です。(まあ「主」が神かイエスかという問題はありますが…。)フリーレンは信徒として、天の国を目指します。

こう捉えることで、悩みや迷いを乗り越えるエピソードが頻出すること、そのたびに勇者ヒンメルや仲間たちの思い出が持ち出されることが理解しやすくなります。私たちが生きていく上で直面する様々な困難について勇者ヒンメルが道を示してくださっている、これは伝道の物語であり、私たちを救うものであるわけです。

もちろん、取り上げられているような悩みや不安をほとんど持たない人もまた多数いるでしょうし、その方々にとってはやや難解な作品という印象になるかもしれません。しかしそれは読解力の問題とは言えないでしょう。

ハイターが信仰を持ち続ける理由を扱ったエピソードがあります。現代でもなお人は宗教を必要としている、というメッセージはこの作品の存在意義を主張するものであるとも言えます。科学の発展によって伝統宗教は居場所を失いつつあるかもしれない。そのとき『フリーレン』は新しい形の信仰として機能できるはずです。

エスの死後、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネなどの弟子たちがイエスの教えを伝える福音書を記しました。同じように『葬送のフリーレン』はフリーレンを通じて勇者ヒンメルの教えを伝える作品です。もしかしたら他の弟子たち、たとえばハイターやアイゼンによる福音書も存在するのかもしれないですね。

今週の飛躍 (2)

  • クリスマス・パーティを開催した。ワインの試飲コーナーに普段は近づかない、というのは我が家ではワイン1本の消費が困難だからなんですけど、人数が多いとちゃんと飲めるので試飲コーナーをエンジョイできることがわかりました。
  • 『名画を見る眼』を読んだ。「これが意味するのが(読者が想像もしないような何か)であるのは明らかである」という構文が散見されたりして著者と友達になれそうもないのは明らかなのですが、それはそうと良い勉強になったとは思います。
    • ピアノを習っていときに、バッハのシンフォニアか何かで「ここでの上行音型は天の国や神に近付きたいという気持ちを表している」と教えられて「そんなん言われないとわかんない、バッハ自身が予め明確にそう説明すべきだ」と思ったんですけど、抽象画もだいたいそういう感じであるという理解しました。
    • じゃあモーツァルトのドソミソがどういう気持ちなのかとか未だに全然わからないですからね。
  • 国立西洋美術館の『キュビスム展』に行った。けっこうおもしろいですね。ただ、理屈が先行しすぎていてコンテキストを共有している人たちだけの遊びって感じはしますよね。芸術ってそもそもそういうものなのかもしれないですけど…。
    • これは表しないと伝わりにくいですよね
      • 西洋絵画 機械による視覚情報処理
        発展前 円柱、円錐、球の組み合わせで形状を把握すべきだ(セザンヌ 円柱の組み合わせで形状を把握すべきだ(デヴィッド・マー、1980年代)
        発展後 一切を立方体(キューブ)に還元する(ブラック、ピカソ 「ボックス」に分割して視覚情報を認識(カズオ・イシグロ『クララとお日さま』、近未来)
    • ボックス単位で処理するのは近未来モノにしてはローテク風ではないか、という違和感が元々あったんですけど、こう解釈すると自然になりそうです。ただまあ、著者が実際に意図しているのは GIST なり HOG なりの古典的特徴抽出の方なのかもしれないですけど…。
    • シャガールのシガール」を実現するチャンスをあえて見送るってことあります? ちょっと信じられないんですけど…
  • カレーを一人分作ることに成功。カレーは大鍋でつくるイメージがありましたが、具を少量にしてルーを1個だけ投入すると一人分できるんですね。
  • 冷凍小籠包。家事問屋の蒸しかごを使うと手間を大幅に省けることがわかりました。
  • 『推しの子』の第1話を見た。これ思っていたのと全然違いますね、YOASOBI の歌詞からは、才能のある激ヤバサイコパスに振り回される話で、激ヤバサイコパスと理解しつつも魅了されてしまうジレンマ、一方で激ヤバサイコパスの方では本当の自分自身を見失うことへの問題意識、そういうところが焦点になりそうですよね。

今週の飛躍 (1)

今年は飛躍の年です。といっても毎年飛躍しているようです。

ところが、どう飛躍しているのか自分でもよくわからないんですね。なので今年は飛躍を記録していこうと思います。


  • 飛躍記録を付け始めた
  • 『エンジニアリングマネージャーのしごと』を第3章まで読んだ。抽象度が低めで「オレが過去に戻ったらこうする」といった調子ですが、そのぶん実用的でいいですね。来週から早速使える部分がたくさんありそうです。
  • ヴォネガットの『スローターハウス5』を読んだ。ヴォネガットの作品はひとつも読んでいなかったんですが、村上春樹が影響を受けたとのことなので気になっていました。この作品の構造は完全に『風の歌を聴け』ですね。おもしろいかといえば別におもしろくはないのが難点。
  • 紅白歌合戦を見て近年の流行りをキャッチアップした。
  • YOASOBI の良さがわかってきた。『彗星の魔女』と『フリーレン』で馴染んできたところで紅白の『アイドル』を3回くらい見て『夜に駆ける』を何度か聴いたんですが、これって歌詞を無視してはいけないんですね。けっこうダークな作風ということが何となくわかってきました。
  • 新NISAの積み立て設定をした。

戦場のメリークリスマス

君たちはどう生きるか』を観ました。この作品については、僕が何かを書く必要はないと思います。

ひとつだけ。いろいろな議論や考察を読んでもやっぱり、僕にとって今年一番インパクトがあった映画作品ということはなさそうです。じゃあそれは何かというと、映画館で見たものの中では… 『戦場のメリークリスマス』です。なので、その話をします。


このセクションには『戦場のメリークリスマス』のネタバレが含まれます。

戦場のメリークリスマス』は、そのタイトルが示す通り、キリスト教の話です。今どき「メリークリスマス」でキリスト教を意識することなんてほとんどないと思いますが、「戦場」すなわち1940年代には「メリークリスマス」ははっきりキリスト教の語彙だったんですね。

ハラ軍曹(ビートたけし)は本来はけっこうきちんとした仏教徒ですが、時代に合わせて素直に暮らしていて気付いたら帝国軍人として暴力的に振る舞うようになり、そのことに微かに違和感を持ちつつもあまり意識しないように過ごしています。ヨノイ大尉(坂本龍一)は時代の空気で武士道に取り憑かれた異常者で、二・二六事件での処罰を偶然逃れてしまったことから、感情を押し殺した武士道の権化です。一方、ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)かつてイギリス式騎士道の規範を重視するあまり弟を苦しめた経験の反動によって、「こうあるべき」論の呪縛から解き放たれた、規範にとらわれずに目の前の人間と真摯に向き合う存在です。そして、セリアズはそのキリスト教的な愛の力によってハラとヨノイを呪縛から解放します。

特にヨノイ大尉、ここに自己投影する自意識はちょっとどうかという批判はもちろんあるわけですけど、それはともかく無意味な規範意識に縛られて苦しむインテリというキャラクタは馴染みやすいわけです。まあ、僕はインテリってわけでもないし、なにか具体的な規範意識に縛られているわけではないですけど…。それはそうとして(キリスト教的な)愛の力による救済、それが大切なのではないかと、この映画を見て思い始めたわけです。


だから最近、関連する本をいくつか読んでいるんですね。

  • 『沈黙』(遠藤周作): がんばりが足りないと愛されないという世界観はつらいですね。
  • 歎異抄』(唯円 / 川村湊 訳)『100分de名著 歎異抄』(釈徹宗): こういう風に、がんばれなくてもオールオッケーなんだよという世界観でやっていきたいですよね。
  • 『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史): 愛とかいう既存の規範に乗っかる時点で良くない、他人に頼らず自分自身で完結した人間を目指す方が良いという話で、これはちょっとすごいですね。そういう言葉が必要な場合もあることは理解しているけれど、でもそれは「理論的には可能」ってやつじゃあないですか?
  • 『神のいない世界の歩き方』(リチャード・ドーキンス / 大田直子 訳): これは「キリスト教をやめろ」とだけ言っていて、じゃあ救いを代わりにどこに求めるべきかという話を一切していないので、正直良くないと思います。論理と合理性だけでやっていくのは大変ですよね。
  • 『愛するということ』(エーリッヒ・フロム / 鈴木晶 役): これをいま読んでいるわけです。一周読んで、「愛することの先に(たとえ自分自身は誰にも愛されなかったとしても)救いがある」ということの正当化があまりなされていないように感じていて、(伝統的に欧米では自然に刷り込まれてきた)そういう信仰をちゃんと持つことができるかが鍵である気がしていますが、もう一周読んで確認します。

これを推し進めた先で僕がどういう考えを持つことになるのか、まだわからないです。とにかく、そのきっかけが『戦場のメリークリスマス』であったということをここに記しておきたく、この記事を書きました。

なぜ山に登るのか

なんでそこに山があるんだよ…。

でもね、せっかく山もあることだし、少しずつ登っていきたいじゃないですか。これは何かのために登るわけじゃあないんですね。

たとえば定年退職後にポーランド語を学んだって何かの役に立つわけでもない。学ぶことそのものが目的であるわけです。とにかく上に向かっているぞという感覚は、やはりひとつのエンターテインメントですからね。

大谷選手はすごい

突然ですが、ロサンゼルス・エンゼルスに所属する大谷翔平選手をご存知でしょうか? 彼、すごいんですよね。

ホームランを打ってベンチに戻ってきたとき、僕はホームランを打ったことがないので本当のところはよくわからないですけど、おそらく「やったぜ」という気持ちじゃないですか。そしてそのまま10分くらいは、あるいはもしかしたらその日ずっとくらい、ただ「やったぜ」という気持ちになってしまいますよね。でも大谷選手はベンチに戻った瞬間に冷静になってプレー動画を確認して「どう打てたのか、なぜ打てたのか。次のホームランへのヒントを探す」*1らしいんですよね。そこまで徹底して自己分析に向かう姿勢、ちょっとすごくないですか?

そもそも大谷選手はプレー動画で投球や打撃フォームをよく確認する傾向にある、確認することが成績に大きく影響する*2らしいんですよね。やはり、自己分析の徹底、自分の今いる位置の確認と修正が彼の成功の秘訣のひとつと言えるわけです。

一方で大谷選手といえば「目標達成シート*3」と「人生設計シート*4」ですよね。つまり、ゴールを明確にすること、現在地を明確にすること、間の道筋を明確にすること、それらを徹底しているんですよね。それに比べて我々はどうでしょう、あなたの目標達成シートには何が書いてありますか? 僕はシートを作ってさえいないです。


僕はもともと、自分自身の現在地を確認することがものすごく苦手なんですよね。これは単純に「本当の自分」と正面から向き合いたくない弱さなんですけど、たとえば自分の写真は見たくない、文章も読み返したくない、とにかく自分と向き合わずに済ませたいタイプです。

女子中学生は自撮りに熱心に取り組んでうまく撮れる角度やポーズを研究すると聞きますけど、この自己に真摯に向き合う姿勢は見習うべきものだと思うんですよね。別に自撮りの研究はしないですが…


何の話かというと、僕は技術者なんですけど、どういう技術者になりたいか、いまどういう技術者であるか、そこがあまりにも明確でない、これは改善しなければならないなと大谷選手を見ていて思ったわけです。たとえば家に技術書が積み上がっているけれど、そもそもこれは何故存在し、どのように消化していくべきなのか。

もちろん技術者に限らない話で、たとえば人間としてどうありたいかなどがけっこう気にかかってはいるんですけど、それはまだ全然具体化できそうもないです。

「文章を改善する」

文書管理ツール Notion に、エーアイを用いた様々な機能が導入されたことは大きな話題になりました。そのひとつが、文章をワンクリックで読みやすくする「文章を改善する」機能です。これを初めて使ってみたとき、僕は「あ、これ嫌いだな」と思ったんですよね。便利とか要らないとかではなくて。

たとえば、この段落はこのように「改善」されます。

Notionという文書管理ツールには、AIを用いた様々な機能が導入され、それが大きな話題になっています。その中でも、文章をワンクリックで読みやすくする「文章を改善する」機能があります。しかし、この機能を初めて使ってみたとき、私は「あ、これ嫌いだな」と感じました。それは便利かどうか、必要かどうかではなく、ただ単に私自身が好みでなかったからです。

この例では、あまり改善された気がしないですね…。いや、まあ、明らかに改善されることもあるんですよ。たとえば雑に書いた技術的なメモはけっこう良くなります。なので、便利ではあるんですね。

でも、便利とかそういう理性的な反応ではなく、感情的な「嫌い」が先立ったということを、令和初頭の素直な感想として残しておこうと思うわけです。


言葉には、たとえば微妙な感情の動きが反映されるわけじゃないですか。伝えたい情報が伝わればオッケーオッケーみたいなものではないわけです。言わば、その時々の自分自身のスナップショットですよね。もちろんきちんと推敲することもあるけれど、それはそれで、その時の考えや感情が反映されています。

そういうものを機械に「改善」されて良いものか。たしかに読みやすくはなるかもしれない。けれど、それはもう自分自身ではないんですよね。「たしかにその方が良く見えるかもしれない… けど、多少不格好でも、俺は俺自身であることを選ぶぞ!」みたいなね、そういう気持ちにならないですか。

もちろん我々は既に多くのものを機械に明け渡しています。ケータイの予測変換とか最初は気持ち悪かったね。でも今ではバッチリ活用しています。それで結果的に自分自身が損なわれたということもない。言葉に何かが宿っているという気持ちはきっと幻想なんでしょうね。

でも、自分ならではの何かが確かに存在し、それをたとえば言葉として残すことができるということ、それはやっぱり信じていきたくないですか?