何が好きかで自分を語れよ

って言われてもさ、それって実はけっこう難しいですよね。

何かを「好き・嫌い」「みんな好き・みんな嫌い」の2軸で分類しましょう。シャノンに従って情報量とはびっくり度であるとすると、「みんな好きで、自分も好き」というのは情報量が少ないです。たとえば「漫画の話? ワンピースとか好き」って言われても「ああそうですか、それはみんな好きですからねえ」という感じじゃあないですか。逆に情報量が多いのは「みんな好きだが自分は嫌い」あるいは「みんな嫌いだが自分は好き」ですね。

ところで、情報量が少ないことを話すと「こいつの話は中身がないな」と思われかねない。なるべく情報量が多いことを語りたいですよね。よって、語りやすさのマトリクスは以下のようになります。

好き 嫌い
みんな好き 語りにくい 語りやすい
みんな嫌い 語りやすい 語りにくい

通常、みんな嫌いなコンテンツより、みんな好きなコンテンツに触れる機会の方が多くなります。好きなものを人に薦めますし、みんな嫌いなものはどんどん忘れられていきますからね。みんな嫌いなコンテンツ(あるいは意見が割れるコンテンツ)にあえて触れるのはそのジャンルにけっこう詳しくなってからではないでしょうか。

たとえば僕は漫画をほとんど読まず、最近ちょっと読み始めたのですが、最近読んだものをこのマトリクスに当てはめると以下のようになります。

好き そうでもない
みんな好き スラムダンク
鋼の錬金術師
めぞん一刻
デスノート
チェンソーマン
ファイアパンチ
うる星やつら
そうでもない (読んでない) (読んでない)

さてこれを語りやすさのマトリクスと見比べてみると… 「語りやすい」に入るのは「みんな好きだが、自分は好きではない」ものだけなんですね。何故なら、ジャンルにあまり詳しくないと、語りやすさが高いもうひとつのカテゴリ「世間で人気はないが自分は好き」に当てはまる可能性があるものには全然触れないからです。

つまり、何が嫌いかを語る方が、何が好きかを語るよりカンタンなんですね。そう思うと、「何が嫌いかより何が好きかで自分で語れよ」は「ニワカは黙れ」と大差ないような気がしてきませんか?


何かを語るときに情報量はそれほど重要ではないとする立場もあります。また、「ワンピースが好き」という粒度ではなく、どこが好きかをもっと細かく語ることで情報量を付与していくこともできるでしょう。なので、もちろん、「何が好きかで」はそれほど強い主張をしているわけではないとは思います。

ただ、何が嫌いかを語る方が楽で、何が好きかを語るには余計に知識やエネルギーなどが必要であり、油断すると嫌いなことを語る方に流れてしまう傾向は、やはり少しはあるのではないでしょうか。

ダブル・シンク

罪と罰」を読み終えました。

けっこうおもしろいですね。キャラクターの魅力は「カラマーゾフの兄弟」と甲乙付けがたいところですが、お話の緊張感はこちらの方が上ですね。ドゥーニャとラズミーヒンが安定しているのも良いです。「カラマーゾフ」の主要登場人物は全員メンタルが限界だったので…。

お話は、論文を1本ちょっと当てた程度でオレはイケてるぞと調子に乗った自意識ヤバヤバの主人公が「それはそうとしてこの世の中はつらいな」となり錯乱しながら殺人を犯してメンタルの調子をさらに悪化させ、救いを求め歩き回るというものです*1。基本的には人間を描き出そうとするものだとは思いますが、殺人がバレるかどうかを巡って心理バトルを展開するところにエンタメ性もあります。


二重思考(ダブル・シンク)という言葉がありますよね。「1984年」の言葉で「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」を意味します。「1984年」を読んだときはそんな意味わからんことをどうやって実践するんだよと思ったんですが、それは作者もそう意図しているはずですが、しかしこれは実は大切なことなのかもしれないと最近は思っています。

「後回しにしない技術」に、 最後には絶対にうまくいくと信じること、一方で個々のタスクは全然うまくいかないと信じて批判的検討を行うこと、この「二重思考」が大事だと書いてあったかと思います。(今ぱらぱら見返して見つからなかったので記憶違いかもしれません。)これ、二重思考という言葉をポジティブな意味で使うこともあるんだ、とちょっと驚いたんですよね。

ところで科学を信じると、世界の法則は単にいくつかの方程式で記述され、未来は既に決定しているか、あるいは神がサイコロを振って決めるかであって、そこに我々の自由意志が介在する余地はありません。そのような結論を導く科学法則を我々は疑っていないわけです。

一方で、我々は我々に自由意志が存在すると信じています。そう信じないと正気で人生をやっていくのは難しいですからね。つまり、論理的に整合性が取れないことをより良い人生のために受け入れること、二重思考の前向きな活用を我々は既に行っているわけです。


罪と罰」も「カラマーゾフの兄弟」も、キリスト教の地位が脅かされつつある時代に書かれていて、神が存在しないとすれば我々は何を拠りどころにすれば良いのかという問題を扱っています。実際、宗教の不在は現代の重要な課題のひとつであって、宗教ではないところに無理やり拠りどころを求めてしまうことによる歪みがいろいろとあるのではないかと僕はうっすら思っています。

でもこれは、神が存在しないことを信じる一方で、神(や救済に類するもの)を信じる、それで良いのではないでしょうか。僕は理系の研究者ですが、それでも絶対に極楽浄土に導かれてやるぞと思ってますからね。

*1:諸説あります。

なんか書くぞ

12月は25日まで毎日ブログを書こうと思っていたんだけど今日は気付いたらあと8分しかなくてピンチ。

サッカーを見ました。うちはサッカー素人で、どれくらいサッカー素人かというと「PKだって。PKってみんなでジャンプするやつだよね」と話していたんですがなんか別にジャンプしていなかったし、「これって何回入れれば勝ちなんだろうね。なんかみんな騒いでるけど…」と見てたら試合が終わっていました。

ケイスケ・ホンダの解説は、いい子ちゃんをしようという気がなく本音ベースなので見方がわかりやすくていいですね。「みんな疲れてますね。こうなったらもういいプレーをした方が勝つんじゃなくて、しょうもないミスをした方が負けますね」とか言われると、ここは綺麗なプレーを期待するフェイズじゃないんだなとかわかりやすいじゃないですか。最後は実況の人がまだ頑張れる感を出そうとしたところでケイスケ・ホンダは早くも絶望感を出していて温度感がわかりやすかったですね。もう少しキツい人なのかと思っていたのですが、どちらかといえばポジティブで前向きなことを言うタイプで意外でした。

もちろん勝って今日が祝日になる方に賭けて多くの国民は3時まで起きていたわけですけど、それは叶わず残念でした。でもサッカー素人でもけっこう楽しめて良かったです。

今日はあと2分しかない。オチがないです。いつもオチがないんですけどね。なくて何が悪いという態度でいつも書いています。

ウィーン室内管弦楽団@武蔵野市民文化会館

行きました。

指揮と独奏はライナー・キュッヒルです。

ベートーヴェンの協奏曲なんですけど、ライナー・キュッヒルは72歳ということで、まあ、その歳だと元気に演奏しているだけで偉いですよね。多少のテクニックの衰えについてとやかく言うべきではなくてね、はい。という感じの演奏でした。

著名だが高齢の演奏家の公演はあまり良い体験ではないことが多く、基本的には避けているのですが、今回は「なんか上手そうな団体のベートーヴェンか、いいな」みたいなチケットの取り方をしたのでソリストの年齢まで調べてなかったんですね。まあたまにはそういうこともあります。

アンコールにパガニーニカプリースを弾いていたんですけどこれはちょっと考え直してもいいんじゃないでしょうか…? 技巧じゃなくて他にもう少しアピールできる何かがあるでしょう、そっちを選ぶこともできたのではないでしょうか。


ところでウィーン室内管弦楽団はその名前から上手そうな感じがしますけど、実際に上手かったのかといえばどうなんでしょう。最近聴いたブダペストフィルハーモニー管弦楽団シュトゥットガルト室内管弦楽団の方が良かったように感じました。縦線があまり合わないのは、もともとそういうのを気にする風土ではなさそうな上に実質的に指揮者なしで演奏していたので仕方ないと思います。ただ、音色はもう少し丁寧にできるのではないでしょうか。もちろん曲目が『のだめ』なので、あえてパワーで押していたのかなと思えなくもないですが。。

それで抜群に良かったのはアンコールの『春の声』です。さすがウィンナ・ワルツの本場の人たちだけあって、自然で躍動的なリズム感で、これはね、他所にはなかなか真似できないでしょうね。


くら寿司の注文のタッチパネルは、時々「情報を更新中です」と入力を受け付けなくなります。

これはどういうことかというと、何かが品切れになったということなんですよね。世界が終るときも同じように、「情報を更新中です」と様々なものへのつながりが一つずつ断ち切られてゆくのでしょうね。

ワクチン4回目

ワクチン4回目を打ちました。ばっちり発熱でした。インフルエンザの夜と似ていますね。何か大きな問題を何とかして片付けなければならないという夢を連続して見るけれど、起きて冷静になってみればそもそも何が問題なのかが全然理解できないやつ。

データによれば今回のワクチンで発熱が出る割合は10パーセント程度なのだそうです。でも周りを見渡してみれば、明らかにそれ以上の頻度で発熱していますよね。データの前提条件が(たとえば人種とか)同一でなくてそれで差が出ているんだとは思うんですけど、そう思うとこの疫病にまつわる他のデータも正面から受け取ってよいものかという気持ちになるので、科学を信じろと言われてもリテラシーが相当問われるよな、と思いますね。


スパイファミリーとぼっち・ざ・ろっくを見て、罪と罰を読んでいます。ぼっち・ざ・ろっくはぼっちが否定的に描かれていてふつうにつらい気持ちになるんですが、世間で人気があるということはみんな平気、つまりぼっちではないんでしょうね。同じくきらら作品のゆるキャンでは人の輪に積極的に入ろうとしないしまりんが肯定的に(というか、そんなのどっちでもいいよねと)描かれていて、そこに世間の進歩を感じていたので、実際のところ別にそういう風潮になっているわけでもないことがわかってやや残念です。

罪と罰はそろそろ最終部に入るところなのですが、そんなに楽しくはないです。カラマーゾフの兄弟はよくわからなかったんですけど、ドストエフスキーの他の作品を読めば理解が深まるのかもしれない、そう思って罪と罰を読み始めたんですけど結局両方わからないままになりそうです。

再評価

突然ですが、これまではそれほど良く思っていなかったけれど実は意外と悪くないぞ、と思っているものを列挙していきます。

  1. 鮭。食材としての鮭です。魚としてはもっともベーシックな存在で、価格は控えめで登場頻度も高く、なんとなく格下の存在と思っていました。たとえば定食屋で「本日の焼き魚定食は、鮭です」と言われたら、うーんそれなら別にいいや… と思ってしまいがちではないですか? でも洋食のコース料理で鮭が恭しく登場するのを神妙な顔で食べてみると普通に美味しいし、DEAN & DELUCA の鮭のパイ包み焼きも美味しいし、それならと適当な鮭定食を食べてみても美味しいですよね。ベーシックなものにはベーシックであるだけの理由があるなと最近は思っています。

  2. 星の王子さま。これはですね、今年読んだ本で一番良いです。それで「夜間飛行」も買いました。

  1. ヨハン・シュトラウスの「こうもり」序曲。ヨハン・シュトラウスなんて全部古くさい退屈なポップスだと思っていたんですけど、この曲、近所の駅のショッピング施設で年末になると流れるんですよね。この、愉快でちょっと古い音楽って、そういうところに良く合うなと思って。どうであれ今年ももう終わり、そうなると愉快に終わりたいですもんね。この曲は気楽なメロディーの詰め合わせで、世界の真理に迫る深遠な音楽という雰囲気は一切ないけれど我々がそんなものを求める必要性って全然ないし、もうそれでいいじゃないですか。そう思うと本当に完成度が高い作品だと思います。カルロス・クライバーYouTube に上がっている映像は音がやや良くないですが Spotify に良いものがあります。

www.youtube.com

何であれ楽しめないより楽しめる方が良いですよね。どんどん再発見していきたいものです。

すずめの戸締まり

見ました。映画の日で1000円だったから混むかなと思ったんですけど、新宿ピカデリーの最終回で席は1割も埋まっていないかなという感じでした。

結論だけ書くと not for me です。


ネタバレには配慮せず、見た人に向けて書きます。

まず、主張が曖昧というか、たくさんのことを同時に言おうとし過ぎて結局どれ一つとしてきちんと語り切っていないですよね。絵が綺麗なのは見せたい、派手なシーンも見せたい、成長も見せたいし冒険のワクワク感も出したいしラブストーリーだし震災についてのメッセージもあるし家族や神についても扱っている。わかりました、それで本当に大事なのはどれなんですか、という気持ちになります。

震災の取り扱いについては賛否がはっきり分かれるようですが、僕ははっきり否の立場です。大ヒット映画監督という立場上「愉快だったな」という印象の作品を作るしかないだろうと思うわけですけど、そういう風に単に気軽なエンタメとして消化するには震災というテーマは重すぎるんですよね。僕や僕の周囲は幸運にも被災していないのですが、それでも終盤は「ああこの画面は気仙沼の火災みたいだな… つらいな…」となり、その上でなんかいろいろ喋られても「いやそんなことより今つらいから」と思ってしまうんですよね。そのことをどう乗り越えるかについて、少なくとも僕に響くメッセージはなかったと思います。


ところでこれは村上春樹の「かえるくん、東京を救う」と似てますよね。

村上春樹に人知れず震災を防ぐ話があったな」くらいにしか認識していなかったのですが、いくつかのレビューによれば、かえるくんは「みみずくん」と戦ったようですね。まったく同じじゃないですか。

村上春樹は1995年を境に作風が少し変わります。それは、村上春樹の出身地である神戸に大きな被害をもたらした阪神淡路大震災と、村上春樹が住んでいた東京で起きた地下鉄サリン事件がきっかけです。そこから社会への関心が強まってゆき、震災を扱った「神の子どもたちはみな踊る」やカルト宗教を扱った「1Q84」が書かれるわけです。そして、それらの作品は基本的に not for me なんですよね。

以前は主に個人の内面にフォーカスしていたが、徐々に社会的なテーマを扱い始める… という点で深海誠と村上春樹はもしかしたら共通しているのもしれません。そうだとしたら、それは僕の好みの変化ではないので、少し残念です。