エヴァンゲリオンとしてのゆるキャン△

ツイッターに流れている情報によれば、多くの人がシン・ウルトラマンエヴァンゲリオンを見出しているようだ。一方で、そのような考察は妥当ではないという批判もある。シン・ウルトラマンを観ていないこともあり、その是非は僕にはよくわからない。

エヴァンゲリオンのすごさのひとつは、妥当かもわからないところにエヴァンゲリオンを見出させてしまうことだ。普遍的なテーマを扱い、強烈な印象を残すあまり、あらゆるところにその残像が見えてしまう。

ここでは、僕がゆるキャン△エヴァンゲリオンを見出した話を書く。


エヴァンゲリオンは長らく未履修で、シン・エヴァンゲリオン劇場版が流行ったことを期に旧劇・新劇を一気に履修した。

さまざまな解釈が許されるところもエヴァンゲリオンの良さのひとつだ。僕はエヴァンゲリオンについて、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と基本的には同一のテーマを扱っていると解釈している*1。社会とのつながりを避け自分の殻に閉じこもることで、平穏だが喜びのない世界を手に入れるか。それとも、時に傷つきながらも他者と交わってゆくことを選ぶか。

その意味で、シン・エヴァンゲリオン劇場版は、あまりにも素直に大人になっていたことに違和感があった。けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときに話すことにしよう。


エヴァンゲリオンに次いで、ゆるキャン△のアニメ版を観た。そして僕は、そこにエヴァンゲリオンを見出すことになる。

しまりんは他者との関わりを回避する傾向を持つ少女で、キャンプに他人と行くことはなく、(反人間社会の象徴としての)自然と向き合って過ごしている。また、超常現象・オカルト系の本を好む傾向があり、現実世界を拒否する姿勢がここにも表れている。

一方でなでしこは他者と関わることの魅力を説き、彼女との交流の中でしまりんは徐々に心を開いてゆく。そして、それまでグループでのキャンプを拒否していたしまりんがついに野外活動サークルとのキャンプに参加し、他者と交わることの良さを見出したところで、ゆるキャン△1期は幕を閉じる。

これはまさにエヴァンゲリオンである。


しかしながら、ゆるキャン△2期を観て、ゆるキャン△エヴァンゲリオンではないと気付くことになる。そうではなく、ゆるキャン△エヴァンゲリオンを超えたところにある。

個人から集団へという流れが明確であった1期に対し、2期には集団性を重視する傾向はなく、なでしこのソロキャンなど個人性に回帰する傾向もみられる。そして伊豆に行く最終回、しまりんはなんと、グループでのキャンプでありながらクルマには同乗せず、原付きで参加することを選ぶ。そして、メンバーもまたそれを自然に受け入れる。他者を受け入れるか受け入れないかの両極端ではなく、その中間を自然な姿として肯定する。

そう、ゼロ年代まで切実であった「個人か社会か」というテーマは、もはや真剣な意味を持つ問いではないのである。どちらでもよい、気にする必要はない、好きにすればいい。個人の多様なあり方を受け入れること、それが中心的なメッセージだ。


もちろん、ゆるキャン△エヴァンゲリオンにはほとんど何の共通項もない。

それでもこのような文章を書かせてしまうのが、エヴァンゲリオンの持つ力だと思っている。

*1:社会学者の東浩紀は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を(エヴァンゲリオンに代表される)「セカイ系」の基本フォーマットとみなしている。